1989年 美空ひばりと小林旭―再び交差した二人の運命

昭和の演歌歌手

1989年―昭和から平成への移り変わりの年。美空ひばりさんと小林旭さんは、運命的な交差点に立っていました。ひばりさんは遺作となる「川の流れのように」で新たな伝説を作り、一方、小林旭さんは「熱き心に」で再ブレイクを果たします。かつて結婚(事実婚)までした二人が、この年に再び交わるかのような運命を辿ることになりました。

二人の略歴と結婚から破局まで

美空ひばりさんは1937年、神奈川県横浜市に生まれました。

本名は加藤和枝。

幼少期から「天才少女」として注目され、6歳でのど自慢大会に出場し、その才能が開花します。

「悲しき口笛」「柔」「真赤な太陽」など数々のヒット曲を生み、「日本の歌姫」として不動の地位を築きました。

映画女優としても成功し、生涯未婚を貫きましたが、1981年には甥の加藤和也さんを養子に迎え、母としての人生も歩んでいます。

一方、小林旭さんは1938年、東京都葛飾区に生まれました。

映画『嵐を呼ぶ男』で「マイトガイ」として一躍スターに。

渡り鳥シリーズや流れ者シリーズでトップ俳優となり、歌手としても「自動車ショー歌」「恋の山手線」などのヒット曲を持つオールラウンドな存在です。

二人は1959年、映画『嵐を呼ぶ友情』での共演をきっかけに交際がスタート。

翌1962年5月29日には婚約を発表しましたが、その2年後には離婚へと至ります。

婚約を発表したその年の11月5日には日比谷の日活ホテルで盛大な結婚披露宴を行いました。

しかし、実際は二人は籍を入れていませんでした、事実婚だったのです。

芸能活動方針の違いや多忙なスケジュールによるすれ違い、さらにはひばりさんの母・喜美枝さんとの軋轢が原因となり、事実婚は解消されます。

その後、二人はそれぞれの道を歩むことになりました。

 

1987年―「不死鳥コンサート」で見せた奇跡の復活

時は流れ、1987年4月11日、美空ひばりさんは東京ドームで「不死鳥コンサート」を開催します。

日本初の東京ドーム単独公演であり、芸能生活40周年を記念したものでした。

しかし、この時すでにひばりさんは重い病と闘いながらのステージでした。

それでも、ひばりさんは5万人の観客を前に堂々と歌い上げ、ステージ上で「私、死にません!」と力強く宣言します。

この言葉は、病を乗り越えようとする彼女の強い意志そのものでした。

エンディング曲に「人生一路」が選ばれ、全40曲が披露されました。

会場は感動の渦に包まれ、これ以降、この公演は「不死鳥伝説」として語り継がれることになります。

 

「川の流れのように」の誕生と背景

「川の流れのように」は秋元康さんが作詞を担当し、見岳章さんが作曲、竜崎孝路さんが編曲を手掛けました。

秋元さんはひばりさんから依頼を受けた際、「ひばりさんの楽曲を作るなんて恐れ多い」と一度は辞退しようとしました。

しかし、ひばりさんと直接会った際、その温かい人柄に触れて詞を書く決意を固めます。

この曲の歌詞は、ひばりさん自身の人生そのものを映し出すかのようであり、「知らず知らず歩いてきた、細く長いこの道」という冒頭は、彼女の波乱万丈な歩みを象徴しています。

レコーディング時のひばりさんは決して体調が万全ではありませんでしたが、「これが私の歌手人生の集大成になる」と強い意志で歌いきりました。

1989年6月―美空ひばりの逝去

美空ひばりさんは52歳の若さでこの世を去ります。肝硬変を発症し、それが進行して慢性肝不全を引き起こしました。

晩年は関節リウマチも患っており、これに対する治療薬の副作用が肝臓に負担をかけ、病状が悪化したとされています。

1989年6月24日、東京都文京区の順天堂大学医学部附属順天堂医院で息を引き取りました。

享年52歳。

その知らせは日本中に衝撃を与え、多くのファンが悲しみに暮れました。

葬儀は国民的行事となり、テレビでも生中継されました。若き日の筆者の記憶に鮮明に刻まれた出来事でした。

日本中がその死を惜しみ、テレビや新聞は連日ひばりさんの追悼特集を組みました。

「川の流れのように」は追悼ソングとしてさらに広まり、ひばりさんを象徴する楽曲となりました。

 

「熱き心に」と小林旭の再ブレイク

同じ1989年、小林旭さんは「熱き心に」で再ブレイクを果たします。

この楽曲は阿久悠(作詞)、大瀧詠一(作曲・編曲)という豪華な布陣で生まれたものでした。

従来の演歌とも歌謡曲とも異なる、都会的なサウンドが特徴であり、まさに「大瀧詠一ワールド」を感じさせるシティーポップ風のアレンジでした。

大瀧詠一によると、歌手・小林旭には松本隆の都会的な歌詞は似合わないとして、阿久悠に作詞を依頼したという。

この曲は60万枚以上を売り上げ、同年のNHK紅白歌合戦にも出場。

新たな小林旭像を確立し、再び注目を集めます。当時ティーンだった筆者も「熱き心に」をテレビ、ラジオで何度も耳にしました。

これまでの渡り鳥シリーズとは異なる洗練された楽曲に驚き、新しい時代の風を感じた記憶があります。

 

1989年―運命の交差点

1989年、昭和から平成へ、二人が運命的に交差した年でした。

ひばりさんは永遠の歌姫として新たな伝説を残し、旭さんは「熱き心に」で再び人々の心を掴みました。
筆者は当時19歳の大学生でした。

美空ひばりさんの早すぎる死に胸が詰まり、小林旭さんの「熱き心に」をカラオケで何度も歌ったのを覚えています。

その頃はまだ「運命」という言葉を軽くしか捉えていませんでしたが、こうして振り返ると、「運命」は確かにあるのだと思わされます。

あの年、二人が交わった奇跡のような出来事は、ただの偶然ではなく、昭和という激動の時代を駆け抜けた二人の軌跡が最後に交差した瞬間だったのでしょう。

歌で人々の心に寄り添い、昭和という時代そのものを象徴した美空ひばりと小林旭―今もなお、二人の歌声は多くの人の胸に響き続けています。

これからもきっと、時代を越えてその歌は生き続けるのでしょう。

最後までお付き合い頂きまことにありがとうございました。

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