日本を代表する歌手、美空ひばり。その圧倒的な歌唱力と表現力で数々の名曲を生み出し、今も多くの人々に愛され続けています。 今回は、彼女の楽曲の中でも特に人気が高く、後世に語り継がれる「川の流れのように」「愛燦燦」、そして彼女が歌い上げた名カバー曲「マイ・ウェイ」の3曲に注目。それぞれの曲の誕生の背景や魅力、美空ひばりの歌声がなぜ多くの人を惹きつけるのかを詳しく掘り下げ、彼女の音楽の魅力に迫ります。
美空ひばりの名曲:川の流れのように
美空ひばりさんの最後のシングルとして1989年1月11日にリリースされました。
作詞は秋元康、作曲は見岳章で、美空ひばりさん最後に発表された彼女の集大成ともいえる名曲です。
それまでは1964年に発売された「柔(やわら)」最高の売り上げ枚数を誇っていたのですが、この「川の流れのように」はそれを上回ったのです。
そして2019年時点では205万枚という驚異的な枚数を売り上げ美空ひばりさん自身の最大売り上げのシングルとなったのです。
この曲は、彼女の死の数か月前に発表され、1989年6月24日の国民栄誉賞授与式でも流れました。
人生を川の流れになぞらえた歌詞と深い歌声が多くの人を魅了し、2007年には「日本の歌百選」に選出。
今も日本を代表する名曲です。
秋元氏が唯一、タイトルを先に決めて作詞した作品で、ニューヨークのイースト川から着想を得たと語っています。
レコーディングでは、ひばりさんが完璧に歌い上げたにもかかわらず、秋元氏が「もう一度」とお願いし、彼女は快く応じ、さらに素晴らしいテイクを披露したといいます。
彼女の没後に生まれた世代にも広く知られる楽曲ではないでしょうか。
美空ひばりの名曲:愛燦燦(あいさんさん)
1986年4月10日にリリースされた美空ひばりのシングル曲です。
作詞・作曲は小椋佳によるもので、人生の喜びや哀しみを優しく包み込む歌詞と、美空ひばりの深い歌声が特徴的な名曲です。
当初、この曲はアルバム収録曲として制作されましたが、美空ひばりが小椋佳のデモテープを聴き、「シングルにしたほうがいい」と強く希望したことで、シングルとして発売されました。
発売当初のセールスは振るわなかったものの、CMに起用されたことや、彼女の歌唱力が再評価されたことで、後に代表曲のひとつとして広く知られるようになりました。
また、「愛燦燦」はカラオケでも長年人気があり、今なお多くの人に歌い継がれています。
ものまねタレント青木隆治が美空ひばりさんの歌声を見事に再現したことでも話題になり、世代を超えて親しまれる一曲となっています。
美空ひばりの名曲:マイ・ウェイ
フランク・シナトラの代表曲として知られる名曲で、美空ひばりさんもカバーを披露しています。
原曲はフランスのシンガー、クロード・フランソワの「Comme d’habitude」を基に英語詞がつけられたものです。
美空ひばりさんは英語が話せないながらも、この曲を見事に歌いこなし、その英語の発音は完璧だと高く評価されています。
彼女は、言葉を学ぶのではなく「耳コピの力」で音を正確に捉え、自然な発音を身につけたといいます。
これにより、まるでネイティブのような発音で「マイ・ウェイ」を歌い上げ、その圧倒的な表現力と歌唱力で聴く人を魅了しました。
彼女の「マイ・ウェイ」は、日本国内のみならず海外でも称賛され、今なお名カバーとして語り継がれています。
美空ひばりの名曲:真っ赤な太陽
美空ひばりさんと当時の大人気グループ・サウンズであった「ジャッキー吉川とブルー・コメッツ」の楽曲で1967年(昭和47年)5月25日に発売された曲でした。
当時はグループ・サウンズが全盛の時代でブルー・コメッツの代表曲「ブルー・シャトウ」が150万枚というミリオンセラーとなっていました。
この曲は美空ひばりさんが芸能生活20週年アルバムとして出した「歌は我が命~美空ひばり芸能生活20週年記念」に収録するために政策された曲でした。
この時、美空ひばりさんは30歳でした。
それまでは美空ひばりさんの衣装と言えば、和服や落ち着いた感じの洋服がほとんどでしたが、この曲では始めて美空ひばりさんはミニスカート姿を披露したことでも有名でした。
この曲はグループ・サウンズ色が全面に出た曲で、美空ひばりさんにとっては全く新しいジャンルへの挑戦曲でもあったのです。
作曲者は「原信夫(はらのぶお)」さんでした。
原信夫さんはこの曲が完成した時に美空ひばりさんと江利チエミさんのどちらに歌わせるか悩んだそうです。
そして最終的には美空ひばりさんに決定したのでした。
その話を後で聞いた江利チエミさんはこの曲がヒットした後で「あの曲は本当は私の曲なのよ」と大層悔しがったという逸話が残っているほどでした(^_^)
美空ひばりの名曲:柔(やわら)
美空ひばりさんの曲を挙げる上で忘れてはならないのがこの「柔(やわら)」である。
この曲は1964年(昭和39年)11月20日に発売された曲でした。
この曲が世に出た時はちょうど戦後始めて日本で行われた東京オリンピックが開催された年でした。
この東京オリンピックにおいて日本の柔道が始めて正式採用されたこともあって「柔」は翌年にかけても大ヒット曲となったのです。
発売後わずか半年で180万枚を売り上げる驚異的な数字を叩き出したのです。
そして1964年と1965年の両年にNHK紅白歌合戦で歌われたのです。
この時はどちらもトリを務めました、特に1965年の紅白歌合戦では大トリを務めたほどでこの曲の人気がいかに大きかったかを物語っているのです。
これは1989年に発売された「川の流れのように」がヒットするまでは美空ひばりの全シングル曲の中では最大のヒットとなり売り上げも最高記録を達成していたのです。
またこの曲は当時の人気テレビ番組であった竹脇無我が主演する「柔」の主題歌として歌われたのです。
当時はテレビ主題歌を演歌にしては絶対当たらないだろうと言われていた時代だったのです。
それをこの曲はみごとに覆し「第7回日本レコード大賞」を受賞するほどでした。
この曲で美空ひばりさんは日本歌謡界の頂点に立ったと言っても過言ではありませんでした。
美空ひばりの名曲のまとめ
美空ひばりさんの名曲には、人生を映し出すような深いメッセージと、唯一無二の歌声が込められています。
「川の流れのように」では、彼女の人生そのものを象徴する壮大なスケールの楽曲が生まれました。
「愛燦燦」は、静かに寄り添うような温かさを持ち、多くの人に愛され続けています。
「マイ・ウェイ」は、彼女の卓越した表現力を存分に感じられるカバー曲として、日本のみならず世界でも高く評価されています。
「柔」は亡き作曲家古賀政男さんが「この曲が歌えるのは美空ひばりしかいない」と言って歌わせた曲だったのです。
作曲界の大御所古賀政男さんご指名で歌ったこの曲はそれまでの美空ひばりさんの曲の中で売り上げナンバーワンを記録したほどでした。
「真っ赤な太陽」は美空ひばりさんに全く新しいジャンルへの道を切り開いた衝撃的な曲として広く国民に受け入れられた曲となりました。
これらの楽曲が長く愛される理由は、美空ひばりさんの歌声が持つ圧倒的な魅力と、楽曲に込められた深いメッセージにあります。
彼女は、どんな曲も自分のものにしてしまう表現力を持ち、聴く人の心を揺さぶる歌唱で多くのファンを惹きつけてきました。
美空ひばりさんの歌は、世代を超えて今なお多くの人々に影響を与え続けています。
彼女の楽曲を聴くことで、新たな感動を見つけることができるでしょう。
名曲の数々を改めて聴き、その素晴らしさを感じてみてはいかがでしょうか。
最後までお付き合い頂きまことにありがとうございました。
合わせて読みたい美空ひばりの関連記事 ⬇



美空ひばりのプロフィール
- 生年月日 1937年(昭和12年)5月29日(土)享年52歳
- 本名 加藤和枝(かとうかずえ)
- 出身地 神奈川県横浜市磯子区
- 職業 歌手
- 学歴 精華学園女子高等学校(卒)
- 所属事務所 株式会社「ひばりプロダクション」
コメント