【歌う天才少女】美空ひばり――若い頃の知られざるエピソードを辿ってみた!

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昭和の演歌歌手

戦後の日本で「天才少女」と称され、音楽界を席巻した美空ひばりさん。
幼少期から特別な才能を発揮し、国民的歌手として知られるようになりました。
しかし、華やかな成功の裏には数々の苦悩があり、彼女を支えた周囲の人々との絆がありました。この記事では、ひばりさんの若い頃(25歳まで)に焦点を当て、その波乱万丈な人生を振り返ります。

幼少期の輝きとデビューまでの道のり

1937年、神奈川県横浜市磯子区に生まれた美空ひばり(本名:加藤和枝)は、6歳で地元の「のど自慢大会」に出場し、その歌唱力が注目されました。

幼いながらも大人顔負けの表現力で、周囲から「天才少女」と称されます。

母親の喜美枝さんはその才能を見抜き、娘を歌手として育てることを決意しました。

戦後間もない1945年、8歳のひばりさんは米軍キャンプで歌う機会を得て、アメリカ兵たちから絶賛されました。

そして10歳で映画『のど自慢狂時代』に出演し、銀幕デビューを果たします。

これが大きな転機となり、彼女の歌手人生は一気に加速しました。

 

天才少女の宿命―過酷な芸能生活と孤独

13歳でリリースした「悲しき口笛」が130万枚を超える大ヒットとなり、美空ひばりさんは国民的スターの座を獲得します。

しかし、その成功の裏には幼い頃からの苦悩がありました。

学校に通う時間はほとんどなく、同世代の友人と遊ぶ機会も限られ、多忙なスケジュールに追われる日々が続きます。

舞台では一つのミスも許されず、大人たちの厳しい指導の下で成長せざるを得ませんでした。

そんな孤独を支えたのが母・喜美枝さんです。

彼女は「ステージママ」として徹底的にひばりさんを管理し、歌唱法からステージでの振る舞いまで厳しく指導しました。

ひばりさんにとって母は「最強の味方」であり、時に「最大のライバル」でもありました。

笠置シヅ子さんとの出会い

ひばりさんが憧れたのは、戦後の歌謡界を代表する歌手・笠置シヅ子さんでした。

幼い頃から「東京ブギウギ」を真似て歌っていたひばりさんは、笠置さんを目標とし、ステージで共演する夢を抱いていました。

実際に舞台で共演した際、笠置さんはひばりさんの歌唱力を高く評価し、エネルギッシュな歌い方を教えました。

その存在は後のひばりさんの歌唱スタイルに大きな影響を与えています。

史上最年少の紅白出場

1952年、15歳でNHK紅白歌合戦に出場したひばりさんは、史上最年少記録を樹立しました。

この記録は長らく破られませんでしたが、2011年に芦田愛菜さん(当時10歳)が「マル・マル・モリ・モリ!」で登場し、最年少記録を更新しました。

紅白歌合戦におけるひばりさんのパフォーマンスは圧巻で、視聴者に強い印象を残し、「日本の歌姫」としての地位を確立することになります。

紅白歌合戦出場回数:17回

初出場:1952年(第3回)「ひばりのマドロスさん」

そして私が印象に残っているのが2019年の「第60回紅白歌合戦」において人工知能のAIが作った美空ひばりの映像が映されたことでした。

これはすでに美空ひばりさんが亡くなれた後のことでしたからその時空を超えた映像の素晴らしさには本当に感動しましたね。

最後の出場:1988年(第39回)「みだれ髪」

三人娘――江利チエミ、雪村いづみとの絆

ティーンエイジャーの頃から深い関係を築いたのが、「三人娘」と呼ばれた江利チエミさん、雪村いづみさんです。

三人は歌謡界のトップスターとして、時にライバル視されながらも親しい友人関係を築きました。

特に江利チエミさんとは姉妹のように仲が良く、互いの家を行き来するほどでした。

三人が揃って出演する舞台や映画は「スターの共演」として多くのファンを熱狂させ、日本の音楽シーンに新しい風を吹き込みました。

個性豊かな三人娘の活躍は、ひばりさんにとってもかけがえのない経験となり、芸能生活に新しい刺激を与えました。

 

父の死と一時活動休止

25歳の時、最愛の父・増吉さんが亡くなります。

幼少期から支え続けてくれた父の死は、ひばりさんにとって非常に大きな衝撃でした。

悲しみに沈んだひばりさんは一時的に活動を休止しますが、母の励ましによって徐々に気力を取り戻し、再びステージに立つようになります。

増吉さんの存在は、ひばりさんにとって「唯一無二の支え」でした。

父の死を乗り越え、彼女はより一層成長し、再び歌謡界のトップに返り咲いていきます。

美空ひばり若い頃のまとめ

美空ひばりさんの若き日は、栄光と苦悩が交錯するものでした。

幼い頃から抜きん出た才能で多くの人々を魅了しながらも、大きなプレッシャーと孤独を抱えていました。

その道は決して平坦ではなく、世間の厳しい視線や嫉妬、過酷なスケジュールとの戦いが常に付きまといました。それでも、彼女は歌い続けたのです。

どんなに苦しい状況にあっても、歌こそがひばりさんの生きる証でした。

ひばりさんが「不死鳥」と呼ばれる理由は、何度倒れても再び立ち上がり、より大きな存在へと生まれ変わるその姿にあります。

25歳で父を失い、一時は活動を休止しましたが、悲しみを乗り越え、再び歌謡界へと戻りました。

心の痛みを歌声に込めることで、ひばりさんの歌は聴く人々の心に深く染み渡り、共感と感動を与え続けました。

今もなお、多くの人に愛される彼女の歌。

その原点には、天才少女時代の輝きと葛藤がありました。

美空ひばりさんの数々の伝説と物語は、時代を超えて語り継がれる「永遠の歌声」として、これからも私たちの心を響かせ続けるでしょう。

最後までお付き合い頂きまことにありがとうございました。

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