沢田研二さんはグループサウンズの先駆けとして全盛を極め、またソロで活動するようになってからもその人気は高まるばかりでした、そんな彼がソロとして最初に出した曲が「君をのせて」でした。今回はこの曲にまつわる経緯を紹介すると共に沢田研二さんのソロ活動以後についても出来るだけ詳しく調査してみました。是非最後までお読み下さいね。
沢田研二の君をのせてとは
グループサウンズ時代のザ・タイガースを卒業した沢田研二さんはソロとして活動を始めます。
ザ・タイガース時代はボーカルを担当し、その甘いマスクと抜群の歌唱力でジュリーとしてファンの間で親しまれた沢田研二さんでした。
その人気はソロ活動をするようになってからもいささかも衰えることはありませんでした。
そんな沢田研二さんがソロとして活動するようになってから最初に出した記念すべき曲が「君をのせて」でした。
この曲が出たのは1971年11月1日(月)のことでした。
この時、この曲のランキングはオリコン週間チャートでの最高位は23位でした。
そして累計売り上げは10万枚でした、それまでタイガース時代には長い間音楽ランキングトップ10に入っていましたが、ソロになっての始めてのチャートインは23位だったのです。
しかしこの曲の持つ心地よいメロディー、そして沢田研二さんの甘い歌声などと相まって根強いファンがいるのも事実でした。
この懐かしいメロディーに遠い青春時代を思い出される方も多いことでしょう。
ソロデビュー曲としては最高に名曲であるという人もいるほどです、それに加えてロマンティックな歌詞、ジュリーの透き通るような綺麗な歌声に魅了されてしまう人が多くいたのです。
この曲によせられたファンの感想を一部挙げてみましょう。
- 一晩で100回聞いても飽きません、こんないい曲を今の若い人に聴いてもらいたい。
- 僕が最愛の人に歌ってあげるなら、この曲だと決めているくらい心に響く曲です。
- 沢田研二で一番好き歌です。昭和は良かった!
- ジュリーは歌声に色気があるだけでなく、日本語をハッキリと発音して歌っているから聴いていて心地よい。
- 目を閉じて聴いているだけで思わず涙ぐんでしまいます。
など数え挙げればキリが無いくらいに評判が良いのです。
作詞は岩谷時子さん、作詞は宮川泰さんでした。
沢田研二とグループサウンズ時代
1960年代に生まれたグループサウンズ(GS)は当時の日本の若者に絶大な人気を持って受け入れられました。
正に一世風靡とはあのような現象をいうのでしょうね。
このグループサウンズというのは和製英語でした。
当時世界的人気があったビートルズが来日してから日本のグループサウンズの膜が切って落とされたと言っても過言ではありません。
最もビートルズが来日する以前から彼らの影響を受けてグループサウンズが出来ていたことも確かです。
日本で最初のグループサウンズの曲は堺正章さんなどが所属していた「ザ・スパイダース」が「フリフリ」という曲を発売して、これが最初のグループサウンズのレコードとされています。
グループサウンズの初期の頃は「ジャッキー吉川とブルー・コメッツ」、「ザ・スパイダース」などが人気グループとなっていましたが、中期から後期にかけては沢田研二さんらが所属する「ザ・タイガース」や沢田研二さんと人気を二分した萩原健一さんの所属した「ザ・テンプターズ」や演奏の最中に失神するメンバーがいた「オックス」などが人気を博しました。
そんなグループサウンズにも終焉を迎える時がやって来たのです。
ブームは約5年間ほど続きましたが、1969年に入るとこれらの人気グループから主要メンバーが相次いで離脱してしまい、その人気はローソクの火が消えるかのごとく下火になって行ったのでした。
そして70年に入るとほぼ完全にグループサウンズの火は消えてしまったのです。
当時を振り返って新聞社のインタビューを受けたザ・テンプターズの萩原健一さんは次のように語っていました。
GSブームを振り返り「自分のやってることが何かこうウソくさく映ってきたわけね。どっぷり酔わなかったんですよ。何か間違って、まぐれで当たっちゃった感じがあった」などと述べている 引用:ウィキペディア
しかしそんな中にあっても沢田研二さんの人気はダントツでした。
その美しい美顔と他を圧倒する歌唱力でその人気は他者の追随を許しませんでした。
沢田研二君をのせて以後のソロ活動
ソロとして活動を始めた沢田研二さんですが、最初の曲が「君をのせて」でした。
この曲は大ヒットというほどではありませんでしたが、それでも10万枚を売り上げる好調な滑り出しだったのです。
またその甘い穏やかな曲調から沢田研二さんの曲の中では一番好きだ、と言う人も多いのです。
その後の沢田研二さんは翌年の3月に発売された「許されない愛」でオリコン最高位4位を記録してソロ活動後に始めてオリコントップ10入りを果たしました。
その翌年、1973年4月21日(土)に発売を開始した「危険なふたり」が爆発的大ヒットとなったのです。
これによりソロで始めてオリコン1位を記録し、その年の「第4回日本歌謡大賞」を受賞したのです。
この時に放送された沢田研二さんは歌謡大賞歴代最高視聴率の47.4%を記録してソロ歌手としての人気を不動のものにしたのです。
またファッションの分野でも沢田研二さんは斬新さが目立つようになって行きました。
そして翌年1974年に出した「追憶」が2回目のオリコンチャート1位を獲得してますますソロ歌手沢田研二人気を不動のものにして行ったのです。
そしてこの年には日本で初めての全国ツアーを開始したのです。
この時には全国16都市34公演をこなし全国の多くのファンを魅了して行きました。
1977年に発売された「勝手にしやがれ」ではオリコンチャート1位を5周に渡って獲得し、ついにその年の歌手に送られる最も栄誉のある賞「第19回日本レコード大賞」を受賞するに至りました。
これにより日本の歌手の頂点に達したのです、そしてレコード大賞における歴代最高視聴率50.8%を記録したのです。
その後も毎年のように全国ツアーを行い2019年まで続きました。
それ以降はコロナの蔓延により全国ツアーは一時中断したこともありましたが、2021年からは再び全国ツアーを再開しているのです。
沢田研二君をのせてのまとめ
グループサウンズの一時代を築いた沢田研二さんですが、ソロとして活動を始めてからもその人気は衰えるどころかますます高まって行きました。
そしてソロ活動最初に出した曲が「君をのせて」でした。
ゆるやかに流れるこの曲調は聴く人の心をいやし、ファンの心を掴むに十分でした。
今回はこの曲にまつわる経緯を紹介するとともに沢田研二さんのソロ以後についても紹介しました。
沢田研二さん自身の芸能活動はその後もすこぶる順調で沢田研二さんの楽曲は海外でも高い評価を得ています。
フランスでは日本人として始めて「ゴールド・ディスク」を受賞し、ハワイ、グアム、シンガポール、香港などで海外コンサートも実施しているのです。
また沢田研二さんは俳優としてもその高い演技力が評価されています。
「第77回毎日映画コンクール」では「男優主演賞」を受賞、「第96回キネマ旬報ベスト・テン」で「主演男優賞」、「2022年度全国映連賞」で「男優賞」を受賞しています。
また京都市の文化の向上に長年功績があったことを認められ「京都市文化功労者」として表彰もされています。
沢田研二さん、老いてますます盛んに活動されている姿は我々シニアにとっても大きな励みになっています。
これからも末永く歌い続けてくれることを祈らすにはおれません。
沢田研二は永遠です!
最後までお付き合い頂きまことにありがとうございました。
沢田研二のプロフィール
- 本名 澤田研二(さわだ けんじ)
- 生年月日 1948年(昭和23年)6月25日(金)76歳
- ニックネーム ジュリー
- 出身地 京都府京都市
- 身長 171cm
- 血液型 A型
- 配偶者 田中裕子(女優)
- 職業 歌手、俳優、ソングライター
- 所属事務所 「株式会社」渡辺プロダクション
- 公式サイト 沢田研二オフィシャルサイト
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