島倉千代子さんはまさに昭和を代表する歌手の一人であることは間違いありません。しかしその華やかな歌手人生とは裏腹に借金返済に苦しんだ人生でもあったのです、そんな時期に発表した「鳳仙花」は正に島倉千代子さんの人生を表したと行っても過言ではない曲でした。今回はそんな「鳳仙花」と島倉千代子さんの関わりを探って見ることにしました。是非最後までお読み下さいね。
島倉千代子と鳳仙花
島倉千代子さんが出した歌に「鳳仙花」という歌があります。
この歌は1981年4月1日に発売され、約80万枚以上を売り上げるヒット曲となりました。
その歌詞の下りに「やっぱり器用に生きられないね・・・」という歌詞があります。
これはまさに島倉千代子さんの人生そのものだったのではないでしょうか。
島倉千代子さんは16歳で歌手としてデビューして出した最初の曲「この世の花」が200万枚を売り上げる、当時としては驚異的な大ヒットとなったのです。
これにより、島倉千代子さんはまだ高校生でありながら世間の注目を一身に集める大スターの仲間入りを果たしたのです。
ちなみにこの島倉千代子さんのデビュー曲は本来、同じ事務所に所属する先輩歌手のコロムビア・ローズさんがレコーディングする予定でした。
ところが当時すでに人気歌手であったコロムビア・ローズさんの日程の都合が付かず、急遽島倉千代子さんがレコーディングすることになるといういきさつがあったのです。
これまでにも本来指名されていた歌手が急遽変更になり代わりに歌った歌手の歌が大ヒットになった例はいくつかあるのも事実です。
水前寺清子さんが歌ったデビュー曲の「涙を抱いた渡り鳥」やこまどり姉妹の「ソーラン渡り鳥」などもその例として挙げられるのです。
このデビュー曲のヒットにより島倉千代子さんは世間というものをあまり知らないうちに歌手一筋、歌一筋の道を歩んで来たため、世間の素性に疎くなってしまったとも言えるのです。
それも相まって島倉千代子さんの人生は歌手活動の華やかさとは裏腹に自身が借りた訳でもない借金のためにその人生の大半を借金返済のために苦労を重ねてしまう結果となったのです。
島倉千代子鳳仙花の1980年代
この歌がヒットした1980年代とはいったどんな時代だったのでしょうか。
この時代は当時のソ連がアフガニスタンに侵攻して世界から避難を浴びた年でもありました。
そのため日本はモスクワオリンピックに抗議を込めて不参加を決めた年でもあり、また日本の自動車生産台数がアメリカを抜いて世界第1位となった時代でありました。
中国では天安門事件が起こり、アメリカではレーガン大統領が誕生、日本人の平均寿命が男女共に世界一となりました。
そして、まさに日本はバブル期に向かって一直線に進んで行った、そういう時代だったのです。
そして1980年代は島倉千代子さんにとっては華やかな歌手活動とは裏腹の借金返済のために相当苦労を重ねた年代でもあったのです。
70年代半ばに細木数子さんと知り合い、借金返済の手助けをしてもらう片方で細木数子さんに操られたとも言える生活を続けざるを得ませんでした。
まさに鳳仙花の歌詞の一部がそのまま島倉千代子さんの人生と重ね合ったかのような生活を余儀なくされたのです。
しかし前述したように芸能活動は順調そのもので島倉千代子1984年46歳の年に歌手活動30週年を迎えたのです。
そして1986年の48歳の年には「第37回NHK紅白歌合戦」において出場30年連続30回出場を達成したのでした。
これは当時としては紅白史上最多記録だったのです。
1987年にはヒット曲「人生いろいろ」が発表された年でした。
この曲はなんと130万枚もの売り上げを記録し島倉千代子久々のミリオンセラーとなったのです。
借金の返済が終った島倉千代子さんでしたが69歳になった時に再び多額の借金を抱えることになってしまったのです。
それは事務所のスタッフに島倉千代子さんの資産を持ち逃げされまたまた借金を抱えてしまったのです。
これにより島倉千代子さんは事務所を解散します。
そして廻りの支えてくれる人たちに励まされ心機一転、こんどは経理も自分で行うようにしようと思い簿記の勉強も始めたのでした。
島倉千代子鳳仙花に見られる不屈の魂
この「鳳仙花」という歌には世間の底辺で自身の人生を恨まずひたむきに生きる女性の生き様が感じ取れる歌詞となっているのです。
幸せを他人に求めず、自身の足下にある幸せをしっかりと見つめて生きる女性を歌っているのです。
島倉千代子さんは幾多の苦難を乗り越え歌手としては大成したもののその人生は決して幸せに包まれたものではありませんでした。
島倉千代子さんには欲というものがありません。
自身の人生を振り返って見たときに歌手として華やかに歩んで来た道と同じく比例して幸せであったかと言えば決してそうではない人生だったのです。
他人の借金返済に明け暮れた人生だったとも言えますが、島倉千代子さんは決して人を恨んだりすることはありませんでした。
それどころか同じ過ちを繰り返すのは自分のせいであるとの思いがあり決して他人を恨んだりしませんでした。
島倉千代子さんの苦難は借金だけではありませんでした。
離婚や自身の乳がんなどの労苦と闘いながらの人生でもあったのです。
しかし島倉千代子さんは不屈の闘志を燃やし続けて決して人生を諦めることはありませんでした。
島倉千代子さんには「歌」という何者にも代えがたい力強い味方があったからです。
歌うことでこれらの苦しみを乗り越えて来たのです。
島倉千代子鳳仙花のまとめ
島倉千代子さんが歌った歌には自身の人生を写しているような曲がおおくありました。
なにも作詞家や作曲家は島倉千代子さんの人生に合わせて歌を作った訳ではありません。
しかしその歌の中には島倉千代子さんの人生そのものであるかのような歌もありました。
「鳳仙花」もそんな歌の一つだったのです。
歌手としては日本を代表する大歌手として大成した島倉千代子さんでしたが、その人生は決して順風満帆ではありませんでした。
裏切られ、打ちひしがれ、多額の借金の肩代わりをし、それはまさにある意味ドン底の人生ともいえるものでした。
何百万枚ものミリオンセラーを出し、傍目からみればこれほど幸せな人生は無いのでは無いかと思われるような人でしたが、決してそうではありませんでした。
人生をもがき続けた人でもあったのです。
しかし、島倉千代子さんはへこたれませんでした。
度重なる不幸をおのれ自身の力でその壁を乗り越えて来たのです。
島倉千代子さんはある意味自身の歌に励まされて歩んで来た人生であったかも知れません。
島倉千代子さんが亡くなったあとにはまだ4億円以上の現金と多数の有価証券も残されていたのです。
こんな苦労を重ねながら自身の力ですべて乗り越えてきた島倉千代子さん。
あなたの歌声は日本人の心に永遠に染み渡り、響き渡ることでしょう。
どうか天国で安らかにお過ごしください。
最後までお付き合頂きまことにありがとうございました。
島倉千代子のプロフィール
- 生年月日 1938年(昭和13年)3月30日(水)
- 死没 2013年11月8日(金)75歳(没)
- 出身地 東京都品川区
- 職業 歌手
- 学歴 日本音楽高等学校(卒)
- 所属事務所 株式会社「日本コロムビア」
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