島倉千代子の最後とは?昭和の大歌手を葬ったのは幼少期に端を発する肝臓癌だった!

昭和の演歌歌手

島倉千代子さんは華やかな歌手人生とは裏腹にその人生の大半を借金の肩代わりをするという人生だったのです。自分の借金ではなく他人の借金のためにです。しかし彼女の不屈の精神、生き様は多く日本人に共感を与えるものでした。今回はそんな島倉千代子さんの最後にまつわる話しをまとめてみました。是非最後までお読み下さいね。

島倉千代子最後の病の正体

島倉千代子さんの直接の死因は肝臓癌でした。

昭和を代表する大歌手であった島倉千代子(75)さんは平成25年(2013年)11月8日(土)に永久(とわ)の眠りにつかれました。

島倉千代子さんが肝臓癌という病に陥ったその原因は遠い幼少期にルーツがあったようです。

島倉千代子さんが7歳のころは日本は大東亜戦争のまっただ中にありました。

当時はアメリカ軍の爆撃機B-29による空襲が一段と激しさを増し、日本のほとんどの大都市は焼け野原にされてしまうというような状況でした。

そのため島倉千代子さんは学童疎開により長野県へと緊急避難を余儀なくされたのです。

1944年(昭和19年)のことでした。

この時に島倉千代子さんは生涯付き合わなくてはいけない病気の引き金を引いてしまったのです。

それは長野県へと疎開した時のことでした。

井戸から手押し車に乗せた瓶を運んで来る時にうっかり転倒してしまい、そのために積んでいた瓶が割れてしまいます。

その時に割れた瓶の破片により左手首から肘にかけて大けがをしてしまったのです。

腕の切断こそ免れたものの47針も縫うほどの怪我だったのです。

そして治療のために輸血までやったのでした。

この時の輸血に問題があったようです。

実はその輸血用の血液にC型肝炎の細菌が含まれていた可能性があったのです。

こうして島倉千代子さんはC型肝炎にかかってしまったのです。

そのためかなりな期間、外で遊ぶことが出来ませんでした。

島倉千代子さんの楽しみは歌うことだけでした。

こうして島倉千代子さんは歌と出会ったのです。

 

島倉千代子の略歴

島倉千代子さんは1938年(昭和13年)3月30日(水)生れで東京都品川区北品川出身でした。

お父さんは警察官で島倉壽雄(としお)といい、お母さんはナカといいます。

兄弟は二男四女の四女として生れました。

島倉千代子さんが3歳の時に大東亜戦争が始まりました。

そして日本は段々と負け戦に陥り、東京への空襲が一段と激しさを増してきました。

そして1944年になると島倉千代子さん達小学生は学童疎開により長野県へと移動して行きました。

そこで島倉千代子さんは瓶に入れた水を押し車で運んでいた時に転んでしまい、割れた瓶の破片で腕を切る大けがをしてしまったのです。

切断は免れたものの47針も縫うという悲惨なものでした。

この時に輸血をしましたが、その輸血用血液が戦時中ということもあってかどうやらC型肝炎の細菌が入っていた疑いがあるのです。

これが島倉千代子さんの将来に大きな影響を及ぼす結果へと繋がって行ったようです。

怪我のために塞ぎ込んでしまった島倉千代子に対してお母さんは戦後のヒット曲第1号となった「リンゴの唄」を聞かせるようにしたのです。

島倉千代子さんはこの歌を何遍も聞きながら歌が大好きな少女へと変貌して行ったのです。

島倉千代子さんにはお姉さん(敏子としこ)がいて、このお姉さんも歌が大好きでとても上手だったのです。

しかし、お姉さんは小児麻痺で身体に障害があったため歌手になるという夢はあきらめざるを得なかったのです。

島倉千代子さんはそんなお姉さんのためにも自分が歌手になるという決心をしたのもこの頃のことでした。

地元の品川神社で行われるのど自慢大会には毎年のようにお姉さんと一緒に出場していたのです。

15歳になった島倉千代子さんは品川区にあった私立日本音楽高等学校(現・品川学藝高等学校)へと入学したのです。

そして翌年の1954年にコロムビア全国歌謡コンクールで見事に優勝してしまいました。

こうして島倉千代子さんのプロ歌手としてスタートが切られました。

 

島倉千代子の功績

日本コロムビアへの所属が決まった1955年3月に出した「この世の花」がいきなり200万枚を売り上げるという驚異的な大ヒットとなったのです。

当時はまだテレビは日本国内にはほとんど普及していませんでした、ラジオが主流の時代だったのです。

NHKテレビの本放送が始まったのはその2年前のことだったのです。

そんな時代に200万枚ものレコードを売り上げるというのはものすごい出来事だったのです。

それにより島倉千代子さんは一気にスターダムに登り詰めてしまったのです。

島倉千代子さんには多くの歌手が歩んで来た下積みの時代というものがありませんでした。

わずか16歳で悪く言えば「チヤホヤ」される存在になってしまったのです。

廻りから持ち上げられたとはいえ島倉千代子さんは決して天狗になったわけでではありません。

ただ社会常識という面ではほとんど身に付かなかったようですね。

やはりこれは自身の性格からくるものでしょうね。

美空ひばりさんなどは9歳でデビューして島倉千代子さんほどのレコードを売り上げた訳ではありませんがそれでも島倉千代子さんよりははるかに若い段階でデビューしているのです。

そして天才少女歌手と言われていましたから、島倉千代子さんよりもっと小さいときからチヤホヤされていたことは間違いありません。

デビューした年齢こそ違え、美空ひばりさんと島倉千代子さんは同級生だったのです。

どうやら社会性は美空ひばりさんの方が一枚上手だったようですね。

でもこの二人の女性歌手は戦後の日本歌謡界の大きな牽引役を果たしたことは間違いありません。

その功績の大きさは甲乙つけがたいものがあるのです。

 

島倉千代子の裏人生

島倉千代子さんはその華やかな歌手人生とは裏腹に自身の人生は苦難に満ちたものだったのです。

島倉千代子さんは少女時代から一気にスターダム登り詰めたため、人を疑うということを全く知りませんでした。

本当に純粋な女性だったのです。

そのため彼女の廻りには悪意も持って近づく人間もたくさんいたのも事実です。

それが原因で何度も騙され続けて来たのです。

友達や知人を安易に信用してしまい、保証人担った結果多くの借金を背負う羽目になったことも数知れずでした。

特に有名なのが細木数子さんとの確執がありますが、これに関しては別途に記事にしていますのでそちらをごらん下さいね。

島倉千代子さんの人生は正に借金との戦いの人生でした。

それでも彼女は歌うこと諦めませんでした、亡くなる直前まで歌い続けたことはあまりにも有名な語り草となっているほどです。

島倉千代子さんが借金に苦しんでいる1987年に出した楽曲「人生いろいろ」は多くの人々に共感を与えたのです。

この歌は正に島倉千代子さんの人生そのものでした。

彼女の波瀾万丈の人生と重なり多くの人々の間で共感を呼んだのです。

このヒットにより借金の返済にも多大な貢献をしたことは言うまでもありません。

 

島倉千代子最後のまとめ

島倉千代子さんの人生はまさに「人生いろいろ」を地で行く人生でした。

下積み生活を知らず、いきなり歌謡界躍り出た島倉千代子さんはその純粋さ故に人生の裏では借金に苦しみ続けた人生でした、しかもそのほとんどが他人の借金の肩代わりだったのです。

でも島倉千代子さんはどんなに苦しくてもくじけることはありませんでした。

不撓不屈とは島倉千代子さんのためにあるような言葉でした。

島倉千代子さんの生き方は我々日本人にどんな苦しいことがあっても信じたおのれの道を歩むことの大切さを教えてくれるものでした。

そんな島倉千代子さんの晩年は肝臓癌に苦しみ闘病生活を送ることになりました。

それでも彼女は歌うことを絶対に諦めませんでした。

島倉千代子さんが残した最後の楽曲「からたちの小径」は南こうせつさん作詞作曲の素晴らしい曲でしたがこの曲を吹き込んだのは島倉千代子さんが亡くなる3日前だったのです。

外に出ることの出来なくなっていた島倉千代子さんは急遽自宅に録音スタジオをこしらえて南こうせつさんを呼び、そこで録音したものでした。

私がこの曲を聴く限りでは、すでに島倉千代子さん本来の美しい清らかな声とは全く別物の少しかすれた声になっていたのです。

しかし、彼女の歌に対する執念が感じられる曲となっていました。

私はこの曲が大好きです。

島倉千代子さんの生き様は困難に負けずに生き抜く強さを我々に教えてくれました。

75歳で島倉千代子さんは天国へと旅立ちましたが彼女の歌声は永遠に人々の心に深く刻まれているのです。

最後までお付き合い頂きまことにありがとうございました。

 

島倉千代子のプロフィール

  • 生年月日       1938年(昭和13年)3月30日(水)
  • 死没         2013年11月8日(金)75歳(没)
  • 出身地        東京都品川区
  • 職業         歌手
  • 学歴         日本音楽高等学校(卒)
  • 所属事務所      株式会社「日本コロムビア」

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