日本人の心にしみる歌を歌い続けた八代亜紀さん。そんな八代亜紀さんは2023年12月30日に急逝してしまいました。病気の原因は膠原病の一種である「間質性肺疾患」でした。この病気は原因が不明で現代医学においても適切な治療法が見つかっていません。しかし八代亜紀さんはそれでも再び舞台に立つ日を夢見て治療に専念しました。だがその甲斐もなく天国へと旅立ってしまいました。八代亜紀さん73歳の冬でした。今回はそんな八代亜紀さんが生きた73年に焦点をあてて深掘りして行きたいと思います。
歌手八代亜紀誕生のいきさつ
八代亜紀さんは幼少期より歌うことが大好きな女の子でした。
それはお父さんの影響を大きく受けていたからです。
お父さんは歌うことが大好きで特に浪曲が大好きでした。
そのため家にいるときは暇さえあれば良く浪曲を口ずさんでいたのです。
そんなお父さんの浪曲を八代亜紀さんは子守歌代わりに聴いて育ったのです。
そして八代亜紀さんはいつしか自分も歌うことが大好きな少女へと育って行きました。
地元でのど自慢大会などがあれば必ずと言っていいほど出場していました。
そのため八代亜紀さんの地域では歌の上手な小学生として知らない人がいないほどとなっていたのです。
ただ、そんな八代亜紀さんにも人に言えない悩みがあったのです。
それは自分の声でした。
八代亜紀さんは歌うことがとても上手だったのですが、自分の声が少しハスキーボイスであったことでした。
ハスキーボイスはそれ自体素晴らしい個性なのですが八代亜紀さんはそれを悩みに思ってしまっていたのです。
ところがある日お父さんがたまたま買って来たレコードを聴いた瞬間、八代亜紀さんは自分の歌声に自信をもつようになって行ったのです。
お父さんが買って来たレコードは当時アメリカの女優や歌手として大活躍していたジュリー・ロンドンの歌でした。
彼女のハスキーボイスを聞いた八代亜紀さんは自分と同じようなハスキーボイスで歌うその歌に魅了されてしまったのです。
そして自分の声に大いに自信を持つことができたのでした、これを境に八代亜紀さんは歌手になりたいという夢を大きく膨らませて行ったのです。
歌手八代亜紀が誕生した年齢
八代亜紀さんの学歴は中卒でした。
中学校を卒業するとすぐに働きに出たのです。
当時は中卒で働くことは当たり前の時代でした。
八代亜紀さんも家計を助けるための中学校を卒業すると熊本市内に本社を置く「九州産交バス」にバスガイドとして就職したのです。
バスガイドならお客さんの前で存分に歌うことが出来ると思ったからでした。
ところがバスガイドというのは歌ってばかりではありませんでした。
観光案内が第一で人前で話さなければなりません。
人前で歌うことは大好きでしたが人前で話すことは大の苦手だったのです。
ちょっと信じられないような話しですが、八代亜紀さんはこの頃は人前で話すのが大嫌いでした。
そんな訳でこの会社はたったの3ヶ月で退職してしまいました。
そこでこんどは八代亜紀さんが選んだ職業はクラブの歌手になることでした。
しかし八代亜紀さんはこの時まだ15歳の少女だったのです。
そこで年齢を18歳と偽ってクラブ歌手のオーディションを受け見事に合格してしまいます。
この時に歌っていたクラブは地元熊本で有名なキャバレー「ニュー白馬」でした。
もちろん、ここで歌い始めたことは両親には絶対秘密にしていたのです。
ところがなんと歌い始めて3日目にお父さんの友達が来店して八代亜紀さんが歌っているところをバッチリ見られてしまったのです。
これを知ったお父さんに「不良は入らない」と大激怒されてしまい、勘当されてしまったのです。
でも八代亜紀さんはこのわずか3日間の経験で歌手として生きる大きな自信を得たのでした。
このキャバレーでの体験がその後の八代亜紀さんの「歌手八代亜紀の原点」と語っているほどです。
ここで八代亜紀さんは石原裕次郎さんと出会いを果たします。
その時に励まされたうれしさは八代亜紀さんの心に一生の宝となって残っていました。
八代亜紀が飛躍した年齢
故郷の熊本にいられなくなった八代亜紀さんは東京の親戚を頼って上京します。
そこで音楽学校に通いながら生活費を稼ぐために新宿で歌える喫茶店でアルバイトを始めました。
そして18歳になった八代亜紀さんは銀座のクラブで歌手として歌うようになりました。
そこで歌っているうちに仲間のホステスから「亜紀ちゃんの歌は哀愁が漂っている」「聞いていると涙が出てしまう」と大変好評を得たのです。
ホステスたちはみんな八代亜紀さんがレコードを出すことを勧め背中を押してくれたのです。
これが八代亜紀さんがその後レコードデビューするための大きな支えとなったのでした。
その後八代亜紀さんは当時の日本テレビ系列で放送していた読売テレビ制作の人気番組「全日本歌謡選手権」に出場して見事に10周間勝ち抜いて優勝を果たしレコードデビューすることが出来たのです。
レコード会社各社からのスカウトを受けてレコードデビューする権利が得られるという番組で当時では有名歌手になる登竜門のような番組でした。
この番組からデビューした歌手に今までは大御所と言われる存在になった「五木ひろし」さんや「天童よしみ」さん「中条きよし」さんなど後に大ヒットを飛ばす歌手達がいました。
私も当時はまだ青年と言われる年齢でした。
そしてこの「全日本歌謡選手権」が大好きで毎週欠かさずに見て居たことを思い出します。
この舞台で歌っていた「五木ひろし」さんや「天童よしみ」さんのことは今でもハッキリと私の記憶に残っているのです。
八代亜紀さんがこの番組で勝ち抜きデビューしたのは1971年のことでした。
そしてそれから3年後に大ヒット曲となったのが120万枚を売り上げた「なみだ恋」でした。
八代亜紀さん23歳の時でした。
心に浸みる八代演歌の神髄
「なみだ恋」の大ヒットにより、その後に出した曲もヒットを連発して行きました。
そして「女心を歌わせれば八代亜紀の右に出る者はいない」と言われるほどの存在となって行ったのです。
八代演歌はこうして日本人の心に深く入り込んで行きました。
1979年に発表した「舟唄(ふなうた)」は男心を歌った八代亜紀の唄としては新境地と言われました。
それまでは女心を歌った歌が多かったのですが、これは男の哀愁を切説と歌い上げた八代亜紀にとっては正に新境地と言われる歌だったのです。
そして1980年には「雨の慕情」で「第22回レコード大賞」を受賞。
年末のNHK紅白歌合戦においてその後2年連続で大トリを務めるほどの実力派歌手として成長。
芸能界における「演歌の女王」としての地位は盤石のものとなって行きました。
八代亜紀さんはその後いくつかのレコード会社を経て1987年には個人事務所「ミリオン企画」を設立。
1990年になるとポップス調のバラード曲である「花束(ブーケ)」を発表し、この曲も大ヒットとなり、演歌ファン以外からも絶賛されロングセラーとなりました。
また八代亜紀さんは多くのトラックドライバーからも愛された歌手であることを添えておきます。
八代亜紀さんが出す楽曲はすべてヒット曲となり、総売上枚数は女性演歌歌手としてはトップの成績をおさめているのです。
ここに八代演歌の神髄を見る思いがしますね。
八代亜紀年齢のまとめ
八代亜紀さんは年齢73歳にて天国へと召されました。
日本歌謡界にデビューして52年という長い年月で八代亜紀さんが残したその足跡は色あせることなく燦然と輝き続けているのです。
そして有名になった八代亜紀さんは地元への貢献も忘れていませんでした。
2012年には熊本県から「第22回くまもと県民文化賞」の特別賞を受賞しているのです。
熊本地震や集中豪雨の災害に巻き込まれた被災地を訪れ、被災者を歌や支援活動により勇気付けることをわすれませんでした。
また捨て犬、捨て猫にも深い愛情を示し、可能な限り救助を続けたのです。
2024年には熊本県から「県民栄誉賞」、八代市からは「名誉市民賞」を受賞、地元に対する貢献度の大きさが評価されたのでした。
また東京都品川区にある「安養院」には八代亜紀さんの一周忌を記念して彼女の銅像が建立されているほどです。
この「安養院」には八代亜紀さんの両親も眠っていることを知る人はあまり多くないでしょう。
生前、八代亜紀さんはこのお寺にモニュメントを建てたい旨を住職に相談していたそうです。
それが彼女の逝去により、彼女自身の銅像になったのでした。
国民に愛され慕われ続けた八代亜紀さんの歌声は永遠に私達の心に響き続けることでしょう。
最後までお付き合い頂きまことにありがとうございました。
八代亜紀のプロフィール
- 生年月日 1950年(昭和25年)8月29日(火)73歳
- 本名 橋本明代(はしもとあきよ)
- 出身地 熊本県八代郡金剛村(現・八代市)
- 職業 歌手
- 所属事務所 株式会社「ミリオン企画」
- 公式サイト 八代亜紀オフィシャルサイト



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